・瓦誕生
・538年仏教が百済から伝わる
・仏教伝来と共に瓦が日本に伝わる
・588年崇峻天皇元年は大勢の技術者が百済より来日した。その中で瓦博士は麻奈文奴・陽貴文・陵貴文・昔麻帝弥の4人。
◎瓦窯作り ◎粘土から瓦を作る成型
◎瓦の焼き方 ◎瓦の葺き方(日本書記)
・蘇我馬子の命により我国初の寺院である 飛鳥寺 (別名法興寺)瓦博士達は、渡来すると直ちに瓦の製作に取り掛かったものと考える。
『四天王寺の建立』
・聖武天皇の勅願により、全国に国分寺が建立(701年〜756年)
・法隆寺建立(607年)
・全国的に瓦の需要が増大
・川原寺 ・築紫大野城
・薬師寺 ・滋賀崇福寺
・興福寺 ・東大寺 ・唐招提寺
・西大寺など100カ寺を手始めとして全国545カ所の寺がけんらんと建立した。特に白鳳時代は数多くの我が国独特の斬新な瓦文様が創出された。法隆寺建立で初めてここで百済博士の直接指導を離れ我が国の瓦大工達が独自の文様と造瓦技術を駆使して完成させたといわれている。
・宮廷建築にも瓦葺きが広がり藤原京、平城京、長岡京などにも瓦葺きが行なわれた。
・飛鳥寺は、平城遷都とともに元興寺として奈良の地に移された。極楽坊は行基葺きで創建当時の瓦が混在しているととされている。
・奈良時代の大々的な寺院の建立により、質の粗悪な物が出回り、瓦葺きが減少し、檜皮葺が流行。
・その反面、緑釉瓦・三彩瓦が使用され始める。我が国独特の正倉院三彩釉も生まれる。
『緑釉瓦・三彩瓦』
・再び本瓦葺が隆盛する。
・浄土宗・禅宗・日蓮宗の波及と武家文化が新たに生まれ、勢い建築様式も豪健で大仏様と唐様が盛んとなって屋根勾配も急となり堂軒の荘厳さを強く打ち出すようになった。
・屋根材も再び本瓦葺が復活し始めた。しかし製瓦技術は急速には向上せず全般的には依然低調であったといわざるをえない。
・日本文化の源流が確立された時代に洗練された良質の日本風の瓦の誕生。
・寺院建築和様、唐様の混然一体的な大伽藍が建立された。
・しかも建築の各意匠から作庭まで日本文化が最も確立された。
・瓦も造瓦技術や造形意匠など においてすばらしいかつての飛鳥、白鳳の瓦が外来的黄金 時代の瓦であるのに対して室町の瓦は純日本的な中興のすばらしい瓦であると言っても過言ではない。
・戦国時代に入り、各地の武将が競って築城を開始し、相当量の瓦の需要が生まれてくる。
・豊臣秀吉も大阪城、伏見城などを築き、大佛殿方広寺などを建立。これと相前後して慶長年間には各地の諸大名が25ケ所の天守閣、その他の城や寺院工事を行ったといわれる。
・一観は瓦の成型についてはすばらしい変革をもたらした。
・武家・寺社の間では瓦葺きが主流となるが、武家の格式保持と町人の驕りを抑える目的で一般民家への瓦葺きは禁止され草葺・板葺であった。
しかし一部の商家では瓦葺き禁止令に触れない程度に平瓦だけを屋根に葺き詰め、火と水を防ぐことが流行。これを「火除け瓦」と呼んだ。
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・享保5年(1720年)江戸で大火が起こり、多数の民家の消失を眼前に見た、8代将軍徳川吉宗は江戸民家の瓦葺きの奨励を布告。
・しかし、瓦は大変高価であった為、庶民の間では一般的には普及せず。
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・桟瓦の出現により一般民家へも瓦葺きが普及。(坊主桟瓦)
『1680年〜1690年ローソク桟瓦の出現』
『1763年 桟瓦の出現』
・明治の新時代に入ると、愛知県の三河地方や兵庫県淡路島等の大生産地に都市の需要と鉄道の発達にともなって、いぶし瓦の一大生産地が出現。
また、京都・泉州・奈良・四国その他全国各地の瓦産地にも盛業の兆。
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・和瓦の発達。一方、明治初年洋瓦の出現。
・フランス人ジェラールによる近代設備の製瓦工場。
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・明治10年頃工部省営繕課により、引掛け桟瓦が考案された。また明治18年(1885)にはロンドンで行われた万国博覧会に出品された。
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・大正の初め頃から末期に向けて徐々に全国的に一般瓦製造業者に普及。
・大正12年、関東大震災で瓦が屋根からずり落ちた為、後に改正された「市街地建築物法」の施工規則に引掛け桟瓦の使用が取り入れられた。
『年代不詳 洋瓦出現』
・第2次世界大戦後の進駐軍施設に大量の瓦工事。一般住宅用のセメント瓦・スレート屋根の需要期。
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・粗製乱造の黒瓦と塩焼瓦の時代。
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・昭和30年頃より昭和50年にかけて住宅ブームが続く。いわゆる釉薬瓦の黄金時代。
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・三河、淡路地方、黒瓦、塩焼瓦業者は競って、オートメーションシステムにより大量生産工場を建設しこの風潮は、やがて全国の瓦産地に波及し、釉薬瓦の氾濫を見る。
・昭和60年代より平板瓦の流行に変わる。